コロナ・インシデント 2/3

2020.3.19

いざ帰国便を取り、荷造りをしていると、留学生活が終わる悔しさとは別の感情が湧いてきた。日本の生活が始まる楽しさだ。少しは景色が変わっているだろうか。欧州での一人暮らしは自由と刺激に溢れており、実に愉快だ。でも不便に感じることは多い。ルクセンブルクは物価が高いから節約のためにも自炊が基本となる。レストランでゴルゴンゾーラのパスタと赤ワインを注文するだけで、松屋のネギたっぷり旨辛ネギたま牛めし4杯分のお金がかかる。そんな生活を続けていたら、たちまち口座の数字が小さくなっていく。ケバブは少し例外だ。周辺国に比べれば数ユーロ余計に払わなければいけないが、レストランよりは安い。ネギたま牛めし2杯分と言ったところか。ケバブ屋さんには大変お世話になった。ケバブ以外の食事はすべて自炊で賄った。おかげで、1人で暮らすためには不自由しないくらいの食事を作れるようになった。しかし、手間と時間はどうしても無視できない。コンビニエンス・ストアが等間隔に配置されている日本の首都圏は楽園と呼んでも差し支えない。

中トロの握りを食べようか、地元のうな重を食べようか、角煮炙り焼豚のラーメンを食べようか。銭湯に入ろうか。日本でやりたいことが頭に浮かんでは消え、を繰り返す。そんなことをしながら夢見心地で部屋を片付け、トルコ航空の受託荷重制限スレスレのスーツケースを2つこしらえた。共同キッチンの引き戸棚には、半年かけて揃えた調味料が丸々残っているが、置いていく他ない。同居する日本人のなおやさんに使っていただけることになった。その後、なおやさんの部屋には日本人留学生全員分の日本食材が集まった。緑茶パック、うどん、そば等々。アジアンストアを開店できるくらいの豊富な種類と品数だ。


2020.3.20.16:00

出国当日、同じ便を取った日本人留学生5人で一緒に搭乗手続きを順当に終え、搭乗口近くの椅子で搭乗開始の案内を待った。搭乗時刻が迫ると、係員がトルコ語でしきりに誘導を始めた。何を言っているのかわからないが、どうやらトルコ人と外国人トランジット客を分けるようだ。感染防止目的だろう。トルコ人が集まるのに時間がかかり、フライト時刻は優に過ぎた。

ついに機体はルクセンブルク・フィンデル空港の滑走路を離れた。浮かせた車輪を畳んで格納し、ドイツの遥か上空を目指す。ルクセンブルクには当分来ることはあるまい。自分の故郷がどんなところなのかも少しはわかった。フランス語に少々苦労したけど、そんなことも今となっては懐かしい。


2020.3.21.0:00

帰ったら何をしようか、誰に会おうかとさらに想像を巡らせるうちにイスタンブールに到着した。気の早い乗客は機体が停止した途端に、立ち上がってオーバーヘッド・ロッカーから自分の手荷物を取り出して降りる体勢に入る。シートベルトのマークが点灯していても関係ない。しかし、今回ばかりは何やら時間がかかるようだ。乗客は全員着席して待つように指示された。ずいぶんと時間がかかった。地上に停止した航空機の座席でこんなにじっとしていたのは初めてだ。楕円形の窓からふと外を見ると、全身防護服に身を包む者たちが地面に受託荷物を並べる作業をしていた。何度か報道で目にした福島原発の作業服を思い出した。その物々しい防護服は、トルコ国家が新型ウイルスをどれほど警戒しているのかを物語った。荷物が縦列に並べられると、アナウンスが鳴る。客席後方に集められた現地人を先に下ろすことがわかった。しばらくして後方にいた乗客が私たちのいる座席の間の通路を進み、機体前方の出口から階段を降りて並べられた荷物から自分のものを探した。

機体に横付けされたバスに乗れるだけ乗って、現地人はどこかへ連れて行かれた。その様子を眺め終わった時、乗り換え便の離陸時刻が近づいていることに気付いた。しかしトランジット客に降りる許可は出ない。乗り換えができなくなる、と叫んで主張する客を添乗員がなだめる。これは警察からの指示で、我々もなぜ待っているのかわからないと話してくれた。事務的な話し方は止め、添乗員同士もおしゃべりをしたり、余ったジュースとスナックを配ってまわった。なんとか和やかな雰囲気を作ろうと努めていたのかもしれない。添乗員も疲れたのだろう、1人は後ろの方の座席を使って横になり、小言を漏らしていた。


2020.3.21.2:00

ようやく機体から降りるように言われた頃には成田行き便の離陸時刻まで数分と迫っていた。黒地に白い文字でPOLICEと書かれた制服を着た大柄な男たちに点呼を取られた。私たち以外に1名、日本人の青年がいた。各々スーツケースを転がして空港内を移動する。乗り換え便を待たせているので、早足を心掛けた。

新イスタンブール空港は天井が高く、きれいだ。この時間帯は暗く静か。昨年4月に完成したばかりの建物は温もりに欠ける。搭乗口に向かって移動しているつもりでスーツケースを引きずっていたら、足を止められた。警察官の一人が言う。

「もう日本行きの飛行機は行ってしまいました。あなたたちはルクセンブルクに戻ってもらいます。トルコにやってきた外国人は引き返すように、政府が決めたのです。準備ができるまで、ここで待っていてください。」


続く

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