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 小学4年生の冬休み、中学受験をするために塾に入会した。いま頑張って将来楽になるなら、やっておいた方がいいかもしれない。クラスではごく少数派だったが、律儀に塾へ通った。となり駅にある塾に向かうために、最寄りのホームから電車に足を踏み入れた私は、公園で遊んでいた自分に別れを告げた。

将来のために頑張ることには納得していたつもりだが、まったく絵の浮かばない未来のために、やりたいことを我慢するのは辛いことだった。

最優先事項は、友達と遊ぶこと。通学路を一緒に歩いて帰った。私が住むマンションの下でいったん解散する。一人になった私は、階段を3階まで駆け上がり、玄関を開けると同時にランドセルを放り投げ、置いてあるプラスチックバットとゴムボールを手に取る。今度はなるべく速く駆け降りて駐輪場へ。黄色と黒のトラ柄の自転車は、なぜかハチみたいだと言われた。それを乗る私は、いつの日かブンブンというあだ名で呼ばれた。バットとハンドルを右手でまとめて掴んで、少し危なっかしい状態で公園へ向かう下り坂をとばした。通学用の黄色い帽子は千葉ロッテマリーンズ・バレンタイン監督時代の赤いギザギザ帽に変わって、風を切る。

公園は少年たちの拠点。野球、カードゲーム、Nintendo DSを気の赴くままにやった。時々、やってはいけない遊び方をした。砂場の土に通路を掘って、水飲み場の水を大きめのペットボトルに溜めて流し込む。「ダム」と称した深い穴に水を備蓄してから、壁を開通させて水路を砂場全体に巡らせる。誰かがバケツを持っていると、いっそう盛り上がった。なぜ砂場で水遊びをしてはいけないのか私には理解できなかった。今思えば、砂が全てどろどろになってしまうからかもしれない。この遊びをしていることが、あるおばさんに見つかるとひどく叱られた。そのおばさんはいつも大型犬を連れて同じ方角から登場するので、見張り役をつけることになった。木に登って見張るのが慣習になった。木に登ったからと言って、見渡せる範囲はたいして変わらないが、ただ立っているのではつまらないから登る必要があるのだ。楽しい砂場遊びはこのおばさんの存在によってスリルが加わり、高い人気を誇った。

全体に水が行き渡るのを眺める。水が行き詰まったら少し掘って傾斜を加えた。おばさんがなかなか現れない日は、トンネルも作れた。小さな砂山を作ってから2人が向かい合って少しずつ削っていく。指が触れ合ったら慎重に腕を抜いて完成だ。トンネルに入った水は、一拍置いて反対側から出てくる。そして小さな公園の端で歓声が沸く。

定刻を知らせる「夕焼け小焼け」はお遊び終了の合図。電柱に取り付けられた防災無線スピーカーからいっせいに流れるメロディーは子供たちを家に追いやるように反響した。薄暗い空を見上げながらゆっくりとハチ模様の自転車を漕いで帰った。

 ルクセンブルクでは、毎年恒例の邦人ソフトボール大会が開かれる。ルクセンブルクはヨーロッパの中心に位置する小国なので、欧州での事業展開拠点としてビジネスが盛んだ。したがって、現地の日本企業に勤めるビジネスマンとその家族が住んでいる。日本人留学生にも参加資格があると聞いて嬉しかった。ソフトボールは野球の親戚だ。小学校の放課後に公園で遊び回っているうちに自然と身に付いた野球に似ているから好きだ。

日本から飛行機で持ち込める荷物には制限がある。スーツケースに運動靴を入れる余裕はなかったので、走塁にふさわしい靴は持っていない。格安の日用品店Actionでスポーツシューズを買うことにした。

Actionの低価格はルクセンブルク大学教授の折り紙付きだ。Academic English C1を担当するイギリス人のおじちゃん先生はある日クラス全体に問いかけた。

「みんなActionって知ってるかい?店内を歩いていると、あれもこれも安くて、なんだかお金持ちになった気分になるんだ。」

無造作に積まれた運動靴の山の中から、メンズ用の無難な柄を探す。一足だけそれらしい色味を見つけたので、周りの靴をどけてサイズが合うことをたしかめ、値札を見た。これでいいや。

レジの手前には、客が会計を待つ間に手を伸ばしたくなるような手頃な商品が陳列されていた。奥歯にくっついてしばらく口の中に味が残りそうなキャラメルチョコや、輪っかや星の形をしたコーンスナックなど。ヨーロッパ諸国のスーパーにはだいたい有人レジとセルフレジがある。後者は自分の手で商品のバーコードを探して、機械に読み取らせて会計まで済ませる。セルフレジが好きでいつも利用するのだが、Actionにはない。

イヤホンを外してレジの列に並んだ。商品はベルトコンベアに置かれ、買い手の横を進んでいく。スタッフはお客さんに挨拶して、時に雑談をしながら手を動かして合計金額を教える。私の前には、高齢の女性客が待機列に並んでいた。彼女は商品を置き、続けてコンベアの脇に横たわる棒をつまんで商品の横に置いた。それは買い主を区別するための仕切り棒だ。本来、すなわち順番を待つ間に私が学習した手順では、自分の「前に並ぶ人」の商品と区別するために置くはずの棒だ。彼女は私の分の棒を置いてくれたことになる。普段有人レジを使わない私は、彼女の親切に気付くのに少し時間が必要だった。感謝を述べなくては。

« Merci. »

初めて発したフランス語。Rの音を喉に引っ掛けるように意識した。彼女は振り返って笑顔を見せてくれた。この時覚えた感覚は一言では表せない。言語学習の成果が認められ、初対面の人物に受け入れられた。もらった笑顔に対して、軽く口角を上げて笑い返したが、内心はもっと揺れ動いていた。

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