コロナ・インシデント 3/3

2020.3.21.7:00

待ちくたびれた。眠気と疲労が全身に纏わり付く。壁際にベンチが点在するホールで待機命令を受けてから、すでに数時間が経過した。各々の荷物を脇に抱えた私たちに検温を受けさせた後、警察は全員のパスポートを回収して立ち去った。知らぬ土地に放り出された挙句、身分を保証する護符まで抜き取られてしまった。

ただ待つしかない。水分を求めて自動販売機の前まで来ても、トルコリラなど持っていないから飲み物も購入できない。硬貨投入口横のクレジットカード挿入口はカードを挿したり抜いたりしても作動しない。まるで飾りのように口を開けたまま、本体は微動だにしなかった。両替して硬貨を手に入れるためにはパスポートが必要だ。

警備員に尋ねたり、カウンターに手当たり次第声を掛けたが、代替便や両替について意味のある回答はほとんど得られなかった。ルクセンブルクや日本の大使館に問い合わせて事情を懸命に伝える仲間もいた。状況を変えるためにできることはないかと動き回る度に体力が削れ、私たちはたちまち一つの柱に荷物を集め、身を寄せ合って座り込んだ。

永遠とも感じられる時間が流れた。かたい床に体温が伝わって逃げていかないように、コートを敷いて睡眠を取ろうと試みる。仰向けで目を閉じると、かたい建材に囲まれた静寂が際立った。目を開けると天井が見える。天井は相変わらず高く、ヨーロッパの教会で見たゴシック建築の「リブ・ヴォールト」を思わせる曲線美があった。地面はスーツケースがよく転がるようにつるつるだ。昼間は清潔で広くて好感が持てたが、今は人の温もりが一片残らず冷め切り、寂しさすら感じ取れた。

衣服や日用品の処分も厭わず、慌ててお土産を詰めたスーツケースは1人当たり約40キロはあった。バスと電車を乗り継いで移動するだけでも、普段使うことのない筋力を要した。留学生活を打ち切って帰国することに対して気持ちを整理しているところだったが、その帰国すらままならず、ルクセンブルクでも日本でもない場所で宙ぶらりんでいるには精神力も消費した。

滑走路に面したガラスを透過した光線を受けて、夜空が徐々に白んできたのがわかった。少なくとも時間は止まってなんかいない。いつかは家に着くみたいだ。

まどろんでいるとワゴンを転がす女性が現れた。運ばれているのはサンドイッチと飲み物のようだ。サンドイッチはプラスチックの容器に密封されていた。フィルムが強固に圧着されているので、全く剥がれる様子がない。表面に鍵の先を押しつけて穴を開け、それを糸口に開封した。味の濃いチーズを挟んだカロリーの豊富なサンドイッチだ。セットで配られたジュースの人工的な甘みを口の中に残して、支給品はたちまちお腹に収まった。


2020.3.21.12.00

こんなに早くルクセンブルクを再訪できるとは思わなかった。フィンデル空港の到着出口では、大使館からサポートにきてくださったお二人に迎えていただき、状況を整理するためにベンチに集合した。鉄道でドイツに渡ってから航空便を取るか、パリ経由の航空便を取るかを話し合い、後者に決定した。旅行会社の担当者に依頼し、6名分のパリ経由羽田便を手配してもらった。大使館の方が担当者につなげた携帯電話を使って1人ずつ支払い方法を伝えた。自分のクレジットカードの番号を読み上げる時には、声に力が入らなかった。

大使ご夫婦がお見えになり、急いで作ってきたというお弁当とお茶をいただいた。お弁当には温もりの残るご飯に鮭フレークが敷かれていた。白米から立ち昇る熱でわずかに身がほぐれた鮭の塩味は、素早く摂食中枢に到達し、割り箸を操る指先を動かした。


2020.3.22.19:30

エールフランスと日本航空を乗り継ぎ、羽田空港に到着した。帰国者は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、公共交通機関を使用せず、2週間の自宅待機が求められる。


大げさかもしれないけど、

「邦人留学生6名 トルコ当局に身柄拘束」

なんていう見出しの報道がされてもおかしくないと思った。

いや、だいぶ大げさだな。

一緒に帰ったみんな、おつかれさま。

2 Replies to “コロナ・インシデント 3/3”

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