コロナ・インシデント 1/3

2020.1.14

「新型コロナウイルス」の文字列がLINE NEWSの記事一覧に現れた時、私は赤いシーツを敷かれた三段ベッドの最下段で、これまた赤いハードカバーで綴じられた本を読んでいた。軽い動機で移り住んだバーテンダースクール寮、通称 ”The Loft” での生活は忙しく、充実していた。カクテル漬けのワンパターンな1日のサイクルの中には、日本の時勢を窺うためのLINEニュース通読が含まれた。新型ウイルスの一件も視界に入ったはずだが、レシピテストに追われる身としては、中国の市場で起きた病気の話は他の雑多な話題と一緒に、脳内を渦巻くアルコールの名称に流されて行方がわからなくなってしまった。


2020.1.24

私の頭の片隅で影を潜めていたウイルスは、パリで1名感染者が確認されたことで、再び顔を覗かせた。スクールはパリの最東端の外れに位置する。周囲に都会らしさはなく、限りなく郊外に近いが、住所に基づけばそこは正真正銘「パリのバーテンダースクール」には違いなかった。遠くアジアでの出来事に思えたことが段々と身近に感じられるようになった。各地の感染者数の報道には多くの紙面が割かれるようになった。

一般的な死亡率は高くない病だと認識していたので、大きな危機感は覚えなかった。ルームメイトたちが風邪っぽい咳をしたら、

「お前たちコロナか?死ぬなよー?」

と冗談半分で言い合える程度だ。


2020.1.30

私はルクセンブルクでの静かな生活に戻った。


2020.2.1

ルクセンブルク大学にいる日本人留学生の1人、じゅんやとイスラエルの入国検査を待つ人だかりの後ろに並んだ。

ある日図書館で彼に会ったときに、旅行でも行かないかという話をした。どうせ行くならば、変わったところに行きたい、と話は進む。「イスラエルとか行けたらいいけどな。」などと軽々しく発言して楽しい時間を過ごすうちに、気付けばすでに2人分の航空チケットを購入し終わっていた。

中東地域と聞くと、なんとなくきな臭いイメージを抱くかもしれない。そのような漠然とした印象に加え、かのイスラム国がイスラエルに対して宣戦布告をしたと報道があった。近くで銃撃戦が起こったら流れ弾を食らって死んでしまうんだろうか、という陳腐な想像をしていたら少し心配になった。スイス人にこのことを話したら

「イスラエルは軍事力がめちゃくちゃ高いから、イスラム国なんかが太刀打ちできるはずないよ。心配すんな。」

との助言をもらった。この時、コロナに関する心配は一切頭に浮かんでこなかった。

イスラエルの首都テルアビブにあるベン・グリオン空港には、30日以内に中国に居た渡航者の入国禁止を示すパネルが所々に置かれていた。イスラエルの入国検査は世界一厳しいなどとネット上に書かれたのをよく目にしたが、特別厳しいとは感じなかった。中国に立ち入っていないことを気持ち強めに問いただされただけで、容易く入国許可が下りた。


2020.2.3

聖地エルサレムでは嘆きの壁に面する広場へ入場するための荷物検査場で、ボディーチェックを担当する女性警官に “Chinese? Corona?” と冗談交じりに声を掛けられた。アジアとヨーロッパのみならず、中東でも新型ウイルスは認知されていることがわかった。エルサレムでマスクを始めとする感染予防策はほとんど見られなかったものの、地球人共通の話題として通じるほど、広い地域に感染が拡大しているようだ。


2020.3.13

武漢で初めて感染が確認されてから約2ヶ月が経ち、イタリアでパンデミックが発生した。コロナ感染拡大の重心はアジアからヨーロッパに移り始めた。ウイルスの影はルクセンブルクまで手を伸ばしていた。私はルクセンブルク市内で普段通り生活を送る。

政府の医療用サイトsanté.luに掲載されるルクセンブルク国内感染者数を示す数字が、毎朝確認する度に上がっていく。この頃には上智大学から頻繁にメールが届くようになった。外務省による感染症危険レベル2発出で大学交換留学は即座に中止することが知らされた。当時、イタリアやスペインはすでにレベル2が発出されており、地域によってはレベル3に到達していた。ルクセンブルクがレベル2になるのはもはや時間の問題だ。本当にこのまま留学が終わっちゃうのかと嘆き、まだ帰国が決まったわけでもないのに友人と思い出話までし始めた。すでに感染症危険レベルが上がった国々の総人口と感染者数の割合からルクセンブルクのレベルが上げられるまでの残り時間を推測した。友人と立てた予想としては3日も経てばレベルが上がるということだ。


2020.3.16

予想が大方的中し、ルクセンブルクの感染症危険レベル2が発出され、交換留学終了が決定した。さらに、ルクセンブルクのフィンデル空港が23日に閉鎖することになる。一目散にスカイスキャナーを開き、最も安価なトルコ航空のチケットに国外脱出の命運を賭けた。

この賭けが仇となり、長く辛い帰路を辿ることになろうとは露知らず。


続く

冒頭に出てきた赤い本はカクテルブックです。

パリで体験したこと。

じゅんやくん登場回。

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